All about that bug

蠢くウジが開く道

アメリカミズアブ(メリアブ)のブリーディングをしてみて思うこと

前の記事で裏庭に放置していた前蛹・蛹満載のコンテナから羽化したメリアブの成虫を飛んできた野鳥がついばみ、それを塀の上で待っていたまだ巣立ちしてまもないと思われるコトリ(ヒナ?)にあげるのを見た時に妙に感動した、という体験を書きました。その後、あの感情は一体何だったのだろうかと、いう問いが頭の片隅にありましたが、「あそびの精舎」企画のむぬトーク vol.1「動植物の供養と共生 -いきものの死から考える死生観」というトークイベントの案内の記述に何かそのヒントがあった気がするので備忘録的にまとめておきたいと思います。

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メリアブはこれまでその生ゴミ・有機廃棄物からの資源回収能力と突出した扱いやすさによって 、化石資源に依存した様々なスケールの飼料と食品産業の持続可能性的な課題解決のために注目を集めてきました。

そんなメリアブと裏庭のミミズコンポストで出会い、爬虫類の餌として販売するための飼育したり、地元のアーバンファームで飼育してみたりした自分の経験からこのメリアブ飼育は、動物や昆虫飼育をされている方や土作りとしてのコンポストなどの既存の社会環境問題の解決に向けた活動の価値を多様化し、自然に触れる体験機会を増やすことに貢献するのではないかと考えるに至った訳です。

そもそも自分の最初のメリアブとの出会いは衝撃的としかいいようがなく、数ヶ月仕事で家を離れ、帰宅時に何かがおかしい、と家族に知らされていたミミズコンポストのフタを恐る恐る開けた時の光景、蠢く音、独特の薫り、飛び出してきた無数の成虫メリアブに身の毛がよだった記憶は今でも鮮やかに思い出され、鳥肌が立つほど。

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あの時のインテンシティというか強烈な密度の湧き立つ幼虫コロニーを自然に作り出す為にどれだけの高栄養価の生ゴミをどれくらいの量ミミズコンポストにぶっ込んだのかと思うと、ミミズコンポストオーナー視点では常軌を逸する行為なのですが、それによって以後10年以上も思考をめぐらし続ける問いとなるテーマを提供してくれたのだから、そんな想定外を起こす家族への感謝も忘れてはいけません。

そんなことも含め、様々な想定外の体験とそれに対するリアクションや適応経験を通して自分というモノがじわじわシェイプされていくものなのだと感じる今日この頃ですが、民主的でリベラルな西洋化が何となく世界をしばらく牽引していく、というような世界観の見立て直しをそれぞれが迫られるこれからの時代、どう考えてもゲテモノと分類されるであろう生ごみを貪るメリアブという昆虫との出会いを身近にして、その付き合い方を日々学ぶことで、それぞれが持つタブーやバイアス、我々が住む狭い浅い世界への理解を開き、今日明日を生きる理由や、より良い未来のビジョンを描くヒントが見つかるのではないか、と勝手に思っております。

 

話は戻って野鳥がメリアブを食べに来るのを見て妙に感動した件です。

生きるために動植物を食べて、排泄をし、そして死ぬのが我々を含む全ての生き物の宿命ですが、長い年月をかけて人類はその本来自然界の森や草原の土壌で起こる排せつ物と死体の分解を生活環境から切り離し、近代においては安全、快適、便利でよくわからないアブナイ自然に触れることを避けるキレイな社会環境を(インフラ)デザインの規範としてきました。

ここしばらく野外の卵採取ではなく、室内での繁殖飼育(ブリーディング)をしてみて実感するのは、命の営みの多くは死によって始まり、死で終わり、その営みを支える環境は糞と死体でできている、というようなものです。

 

そして自分も本来は生態系の一部として、そのシステムの根幹である土に還る糞をして土に還る死体となる宿命をもって生きている、はず、という感じのものです。

 

すなわち生きるということは死にむかって一直線に向かいながら、その生きるために必要な土壌に糞を落とし、最後には自ら土に還ることで世界と調和するのでは、ないか、ともすれば本来我々は糞と死体として土に命を還す為に生きている、とも言える、みたいな話です。

 

この虫のブリーディングをはじめてからというもの、なかなかの数の命の誕生と(成虫の)死体の片付けに直接関わっていることになりまして、これは動物を扱っている農家さんなら普通の経験だと思われますが、命の誕生を喜び、その死を目の当たりにし、立ち会うことが日常化してきます。

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そもそも一体この活動のどこに喜びを見出せるのか、疲れてくるとやってる意味すら時折がわからなくもなりますが、メリアブを爆裂に育てたい、という欲求の根拠にはまず大喜びする餌になる生ごみが利用されないのはもったいない、というのがあるわけです。

そのもったいない、というのは、もっと使えるのに、という意味あいがあるのと同時に、ありがたく頂くために育てられ、収穫された動植物の肉体という生命エネルギーと魂の塊みたいなものが、我々の口に入ることも土に還ることもなく、食品廃棄物やら生ごみとなりビニール袋に詰められトラックで運ばれて処分場で腐るか燃やされる、という終わりかた迎えることを近代のインフラデザインされていることを無意識に人はイタタマレなく感じているのかもしれない、とも思えてきます。

 

となると、私がメリアブ飼育に勤しむ無意識の動機は人間が食べものとして命を召し上げておいて、食べられず捨てられる動植物の死を悼み、その死体を虫に食べさせ、命の終わりと始まりを確認する供養的な行為をしているのかもしれない、ということです。

これはコンポストやミミズによって生ごみを処理する方々にも通じるものがあると思われますが、これをいわゆる死体に群がるタブー的な虫の代表であるハエという種に分類されるメリアブに委ねている、というところに何か意味があるのかもしれません。

 

世界では風葬や鳥葬また、もがりと呼ばれる古代日本のハエなどによって遺体が消えていくのを待つ葬儀儀礼のような、死を自然に委ねる、行為がありますが、それは死体を食べる鳥や動物が肉体を食べ終わったり、ハエがウジから成長し羽化するまで待つことで、「死」という現象を生きている人々が視覚的に、そして体験的に理解するための重要な過程であった可能性を示唆しているとも思われます。

そしてそれは現代の私たちが持つ「死」の概念、すなわち遺体が自然に還っていくという事実から目を背け、死を非日常的なものとして捉えようとするもの、とは異なる、より直接的で自然との連続性の中に死と生を捉える視点があったことなのかもしれません。

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ということで、動植物の死体である台所の生ごみを食べて育ったメリアブ幼虫が蛹を経て、成虫になったところに野鳥が飛んできて食べる、その生ゴミをたべて出した糞で豊かになった庭の草花にミツバチが来る、という命の巡りを可視化、体験できる風景を意図的に都市環境にデザインするということは、民俗学者の加藤秀雄氏がいう所の「生類(いきもの)供養」であり、 これまでの日常では意図的に排除してきた死と生を自然の連続性の中で捉える視点を身近なものにする事につながるのではないか、と思うわけです。

 

となると、生ごみによるメリアブ飼育インフラは日々の現代的な衣食住が自然や生きものの生死の上に成り立つ実感を得る体験となり、すべての命をケアする死生観をはぐくみ、調和を探求し、大いなる無常なものとの調和を探求する場、ツールとなりうるのではないかと思います。

 

そもそも生ごみになる前にバラバラにされ死んでいる動植物の生ゴミ化は供養に値するか、というのはまた新たな問いですが、供養は、単に死者を弔う行為ではなく、命への感謝や敬意、関係性の確認といった意味を持つことが多いようで「いただいた命に感謝する」「輪廻の一部として死を受け入れる」という考えが供養の根底にあるとされています。

 

実際に、収穫祭など五穀豊穣を祈り、自然の恵みに感謝する儀式がある一方で、そんな恵みの大地からの搾取による大量生産大量廃棄が当たり前になった現代だからこそ、反省と共に供養が必要なのかもしれない、と思うところです。

 

同時に、情報過多、環境問題、経済不安など、まさに波乱万丈と言える時代を生きる私たちにとって、以下の点においてBSF飼育が心の拠り所となり、生きるヒントを与えてくれるかもしれません。

  • 小さな成功体験と自己肯定感: 生ゴミがメリラビによって着実に分解され、資源へと変わっていく様子を見ることは、小さな達成感と自己肯定感を与えてくれます。
  • 自然との繋がりによる癒し: 土や植物に触れるように、メリラビの活動を観察することは、私たちを自然との繋がりを感じさせ、心の安らぎをもたらしてくれるかもしれません。
  • 環境問題への具体的な貢献感: 大きな問題に対して無力感や慢性的な不安を感じがちな現代において、BSF飼育は、身近なところから環境問題の解決に貢献できるという実感を与えてくれます。
  • 生命の力強さへの希望: 無価値どころか放っておいたら大変に迷惑な生ゴミを糧にして、力強く生命を育み、成長していくメリラビの姿は、困難な状況でも生き抜く力強さ、そして希望を与えてくれます。
  • 無常を受け入れる心の育成: 動植物の命の終わりを糧に変化し続けるメリラビの様子を観察することで、変化こそが自然の摂理であり、それを受け入れることの大切さを学ぶことができます。

「湧き立つメリラビ絶えずして、同じラビにあらず」ということで、現代の鴨長明の「方丈庵」としてのメリアブ飼育小屋が増え、この小さな虫との触れ合いを通して、私たち自身の存在、そして世界のあり方を見つめ直す、静かで深い哲学的探求を通して未来を描くことができるのかもしれません。